追い風1.8m/s

人に見せる用のブログです

眠りと恋文

(4662字)

一番最後の追記から読んでください。

 

 

 

2023年1月3日現在、このブログと、もう一つのブログを持っている。

 

もう一つの方を少し元から持っていて、そちらで日記をしばらく(といってもまだ1ヶ月ほど)つけている。あくまでも日記はリテラシーに配慮した上で公開しているとはいえ、あまりにもそれは赤裸々かつ「人に読まれている、読んでもらうための」文章であるという視点が抜け落ちている。

そのため、「私」が書いたことを明確にしている、人に読んでもらうための文章は、日記と分けた方が賢明だろうと判断した。そうしてこの「人に見せる用のブログ」ができたわけだ。

 

 

これで問題は解決したように思うのだけれど、しかしだ、一つ最近悩んでいる。

 

知り合いのブログをフォローしたい時、一体どちらのアカウントでフォローをすればよいのか?普段使いのアカウントと、一応のところフォーマルな顔をしたアカウント、どちらにすれば良いのだろう。

 

どっちでもいいだろうと言われそうだが個人的には、素の笑顔で握手を交わすか、ビジネススマイルで名刺を差し出すかぐらいの違いを感じる。違うだろうこれは明確に。

 

で、だ。その上で時と場合で二者を使い分ければいいだろという話なんだろうが、できれば前者でいきたい。が、そうすると日記の目的が失われてしまう。

日記自体は、私が他では言えないようなこと含め匿名性やリテラシーを保ったまま好きなように書き散らす、という目的で運用している。私のTwitterとかインスタとかとこちらの日記は完全に隔絶しているので、それらを入り口にして私のブログもとい日記だとは特定できない。

その上、Twitterのように私のつぶやきが受動的に垂れ流しになってるわけでもないので、もし私の日記を見つけた人間が私の日記を読んでたとしたら、意図的にリンク踏んでブログに飛んで来ないと読めないわけだ。

そんな能動的に読んでるやつに、お前の日記はクソだ!と批判される余地などない(リテラシー的にクソなところがあればすぐに批判されるべきだが)。なぜなら、嫌なら見にこなければよいから。見にこない、というだけで「クソな文章」でお目汚しを喰らう確率も0になるのだから。

 

あくまでも相手に見るか見ないかの選択権を残すための、SNSやその他の手段との隔絶である(ここまで言うてて、いつかついうっかりTwitterとかでバレたらクソ面白いのでそのときは笑ってください)。

そのため、日記の方のブログで他人をフォローするのは悪手だ。

 

 

ではなぜフォーマル(笑)のアカウントはダメなのか? これは前者に比べると幾分みみっちい理由である。

つまり、勝手な想像による萎縮だけれど、「そういうフォーマルな形の上っ面な感じがするの、みんな嫌いそ〜〜〜…。」という理由から、だ。「名刺を渡すんじゃなくて、赤裸々にぶつかって来いよ!あ?!」っていうんじゃないかなあ、なんて。悩みすぎな気はするけれど。

 

 

なんでこんなことを今こんなに悩んでるのかと言えば、「最近思い出したあの人のブログのあの記事が好きだったんだよな、フォローしたいなあ…」という思いに駆られているからだ。しかしその人は、なんとなく、作られた言葉よりも普段使いの言葉の方を好みそうだなあと思うのだ。本人に聞いてない想像なので、なんとも申し訳ないが。

 

ので、名刺を渡すこと、つまり準フォーマルブログで他人をフォローすることを憚られている。

 

 

 

こんなことでどんだけ悩んでるんだお前は!

とも思うけれど、こんなことでここまで悩んで結局文章にまでしてしまったのがお前なので、そういうものなのだろう。

 

 

 

…。

などと考えながら、とりあえずは名刺を差し出すことにする。

南無三、やむなし。

 

 

 

でもそのくらいあなたの言葉遣いが好きなのだ。

私にはあなたに文章を書くことを強制する力など微塵もないのだけれど、よければまた好き勝手に言葉を吐いてほしい。

 

 

大学に入ってから、ありとあらゆる人の文章をありとあらゆる場所で読んできた。

ただあなたのブログのとある記事のワンフレーズがどーーーーしても頭から離れない。人との関係だとか人生の意味とかあるべき理想とか自分の存在とかがもう何も分かんなくなってた時期に、ふっと救い出してくれた言葉なのだ。

 

執着と愛慕の間の限りなく見えにくい境界をするすると優しく指でなぞり、誰かとの出会いと別れをこれほどまでに清々しく描き出せるようになるまでに、この人は今までどれほどの感情を経験してきたのだろうか。

 

これは完全に個人の感想だけど、痛いもの(裏切り、挫折、失恋、喪失等、その他各々の想像に任せる)で擦られ続けた人間ほど、優しく輝くと思っている。でももし経験しなくて済むなら、その擦られは回避したほうがいい、なぜならとっても痛いから。

そんな優しい人間がいてしまうという事実ほど、この世の苦しみの存在を痛感する時はない。この人どれだけ傷ついてきたんかな、と。

もっとみんな無邪気で、少し乱暴で、たまには傷ついて泣いて、結局幸せそうな顔をしていればいいと思う。

 

でも、それでもやっぱり、たくさん思い悩んで傷ついて、それでも前を向こうとしている人の美しさが、私は一番きれいだと思ってしまう。

私はとてもずるい。

 

 

話を戻そう。実際のところ、かの文章のかのフレーズ通りの生き方をすることがどこまで可能なのか、はたまたこの通りにいかないことに良さがあったりするのか、そのへん含めて「この生き方が正解なんだ!!」と今すぐ言い切ることはできない、し、する方が失礼だと今の私は思う。

 

 

ただ、読んだ時にすっごくすっきりした記憶がある。

私は自分の足で自分の世界に立つということの学習をみんながずっと昔にやるはずのどこかの地点で見落としてきたようで、それ以降気づかないうちに誰かに縋り付いては疲弊させてしまってきたようなのだ。要は自立ができていない。

そういうカスみたいな自分が嫌で、でもどうやって変えたらいいかもわかんなくて、もう「助けてくれ!」と叫ぶ以外に何にもできなかった人生最悪の時期が数年前にあった。そう叫ぶのにも疲れたあたりで人はふっと消えるのだなとも、何となく理解できてしまった(「死にたいと言ってるやつほど死なない」という言説があるが、あれは「死にたいと言えてるうちはまだ死なないで済む」の方がより正確だと思う、周りで死にたいと言うてるやつがいたら肯定せずともひたすら聞いてやるのがいいと個人的に思う、もし相手にも元気があればどこかに一緒に出かけるのもいい)。

 

まー、なんともあやうい時期だった。

あの時は半分死んでたというか、仮死状態というか、ずっと深い深い眠りに落ちているようで、はやく目覚めて生まれたいと思っていたような時期だった。

今年からようやく目が覚めて人生がやっと始まったような感覚がしているのだけれど、今もたまーに昔の気があるのでまだまだ一人前とは程遠い状態なんだろう。

精進。訓練しかない。生き続けることでしか見えんものがある。

 

ただ、みんながやるはずの地点を見落としたからと言って手遅れとか遅すぎたってことはないと思っている(某人曰く、never too late の精神)。月並みな表現だけれど、できるようになれさえすればそれが人生で一番早い日だから。

もちろん、もっと前にできるようになってたらせずにすんだ失敗なんて山ほどあるけれど、それはそれ。実際自分が歩いてきた道はこれしかないわけで、これが自分。タラレバなんて考えても仕方がないだろう。

そんなこと考える暇があれば失敗をこれからに活かした方が100良い。良いのだ。もうそれは理屈とか抜きにでもそう思った方が精神衛生上も、実際にこれから起こる出来事に対する働きかけ的にも良い。

全て今の自分に必要だったから起きた失敗なのだ。もしもともとできてて自分に不要ならしなかったはずだし、必要な失敗ならそこでやらかさなくてもいつかどこかでやらかしてただろう。

必要だから、必要な時に、起きたのだ。そう思う。

 

 

 

すぐ話が逸れる。要は、自分の「自立できてない」ってコンプレックスからくる不安定さに、当時あの人の文章がめちゃくちゃ刺さって、血と涙と一緒に不要な毒がどばどば抜けて大変すっきりしたことがありました、という話。

最近この文章をちょうど読む機会があって読んだので、それでいろいろと思い出したのだ。そんで「あわよくばフォローしちゃいたいな☆」みたいな気持ちになっているわけで。

 

ファンか? というよりもラブレターか。憧れか。

深い眠りから覚めるきっかけをもらったという意味ではおとぎ話の口づけのようなイメージに近いかも。

ただ一方的にお姫様ぶってるので一抹のきしょさがあるが。

 

 

そういえば、この前読んだ時は最初に読んだ時とまた印象が変わっていて、それもとても面白かった。

 

私もまたいろいろと進んで、新たに一つ答えらしいものを見つけて満足して、また違うなと違和感を覚えては、新たな答えを探すなり今ある答えを磨くなりする旅に出ることになるだろう。

そうしてうろちょろした後に、かのフレーズに戻ってこよう。また違う見方ができるようになってるかもしれない。

 

同じものを見てるのに、別の感想を抱くなんて、他の人とでも面白いのに過去と今の自分ででもそれが可能だなんて、素敵なことだよね。

そう思うとやっぱり、過去の自分と今の自分は他人なのかしら。そう思えば余計に日記を書いてた方がいいな。できる限りは続けておこう。

 

 

それはそうとして、今回の主題は、好きな文章に触れた折に見た昔の夢と、もう少しあなたの言葉が読みたいという、振り返れば熱烈なラブレターのようになってしまったお気持ち、という意味で、こんなタイトルにした。

そんな感じ。

 

それでは、このへんで。おやすみなさい。

 

 

いやー、好きなんだよなあの文章。みなさんもぜひ。ぜひっつっても私の文章じゃないからもにょるけど。さっきついにどきどきしながら読者になったよ。

人としてはそれなりに好きだよって記事の最後1フレーズです。こういうのってどこまで正確に引用するもの? そもそも引用して良い?

 

また悩んじゃうなあ、もうええわ、ありがとうございましたー(それはそうと、引用云々のルールはいつかちゃんと調べましょうね)。

 

 

 

 

追記:

とんでもない勘違いをしていたことに投稿後に気づいたため追記。

はてなブログって、大元のアカウント作って、そこからいくつかブログ作れるみたいな形式じゃないですか?だから、それぞれのブログごとに他の人のブログをフォローを別々にできると思ってたんですね。

できないんですね?

アカウント間のフォローだから、一つのブログでフォローするっていうのはおかしくて、フォローしたらどのブログから見ても大元のアカウントがフォローしてるのだから読者になってるってことなんですね?

 

という勘違いをしたままくどくどと今となっては意味のない葛藤をしていたことに気づいてしまったため追記としておきます。なんてこった。

 

ということで、普通にフォローさせていただきました。素の笑顔で名刺を乱暴に握り込んだ手のまま握手を求めているような気分だ。

ちなみに冷や汗はだらだら。南無三。

 

以上、本文に戻ってください。